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宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』読む。

東浩紀を乗り越えようとする熱意がじわじわと伝わる。内容的にも十分に、以前の東浩紀が見逃していた新しい物語パターンの台頭と、その社会的意義を説得力を持ってに説明し得ている。よって、東浩紀という変数を抜きにしても、この本の独自的な価値は非常に高いと個人的に考えている。
セカイ系に代表されるような1995年以後、大衆的に支持されてきた物語パターンの意味について積極的に発言してきた評論家が東浩紀で、彼は今現在、日本社会において文化的言説が流通する空間では第一級の行為者といえる。宇野常寛は基本的に東浩紀が提示してきた見通し図(すなわち、現代日本社会の若者層において広く受け入れられている物語形態と、社会自体の変化との連関関係を説明する論理枠)を、そのまま受け入れる。東が主張してきた論に対して、論理整合性の面で批判する箇所はほとんど見られないのである。その代わり、宇野は、東が論じてはいないが現実社会において存在感を増してきた新たな物語類型(バトルロワイヤル・モデルといっている)があることを指摘し、この新傾向を無視していることが、結局は東浩紀の現状認識に誤りをもたらしていると批判する。
バトルロワイヤル・モデル以前までは東浩紀が提示した図式にほぼそのまま乗っかっているが、というのも、東の図式はバトルロワイヤル・モデルという新たな傾向が出てくる背景自体であり、東の図式からバトルロワイヤル・モデルまでの流れを明瞭に説明し得れば、東浩紀の枠組み自体が宇野の主張の力強い土台になるからだ。その意味では、宇野は東が築き上げた見張り台の上に、さらに高く見張り台をつけたという見方もできる。比喩的にいえば、巨人の肩の上に乗っかっている小人ともいおうか。  しかし、すでにいったように、東浩紀という変数を考慮にいれなくても、宇野の論は十分興味深い独自な立論となっている。バトルロワイヤル・モデルについての宇野の主張は、私には、オリジナリティーに満ちていると思われるからだ。では、バトルロワイヤル・モデルとも言われる新しい物語類型は、どのような特徴をもち、どのように社会的変化と連動しているか。
80年代以降のポストモダンは、結局は、日本社会全般に過剰流動性が浸透していく過程である。マルクスが『共産主義宣言』でいった言葉、”All that is sold melts into air.(日本語ではどう翻訳されているかわからないため英語で失礼。)”がやっと現実化したともいうべき現象がポストモダンで、マルクスは当時、前資本主義的な遺産を資本主義の運動が結局はすべて粉々にしてしまうであろう、という意味で 言ったのだが、ポストモダンにおいては、資本主義とともに過去の遺産を破壊し、自らの秩序を構築してきた近代自体が、資本主義運動の破壊対象になったという側面が違う。東が広めた用語を使えば「大きな物語」の崩壊で、国家や歴史や理念といったものはもはや個人の善悪判断や行動を律する役割を担えなくなり、個人は自分が好きな趣味レベルの世界(「小さな物語」)を自分の生きていくフィールドとして据える。この大きな物語の脆弱化が実現されたとき、物語的な現象として台頭したのが「セカイ系」である。これは、個人と世界が、国家・民族・理念・社会などといった近代的な媒介項なしに、直接つながるような生活感覚がリアリティをもっていることを意味する。そのようなリアリティのなかで生きる個人は、社会と自分との相互作用(社会の中で自分の位置を見出し、それに基づいて目標を定め、行動する)よりは、自分の身近な領域、慣れ親しんだ関係性のなかで承認を得ることで自分の生きる価値を見出す。東の言葉を使えば、個々人はキャラクター化する。
宇野は、ここまでのポストモダンに対する東の見通し図を、そのまま受け入れる。ただ、一つの条件をつける。キャラクター化に象徴されるような、狭い趣味的関係性のなかでの相互承認システムは、あくまで既成の秩序=「大きな物語」が崩壊したがゆえに過度的に見出された<生き甲斐備給システム>で、それ自体が駆動の原動力をもっているわけではないので、いずれは機能不全に陥る運命にある、という条件だ。
この条件付きから導きだされる宇野の理路は斬新である。過去は有効だったルール(秩序)がもはや機能しないため、未来は不透明になり、むやみな行動はリスクが大きい。そのため当面、<なにかをする>よりは<今の自分を肯定>する選択をする若者が多くなるが、しずれ新たな秩序の構築に乗り出す人たちが出てくるのは時間の問題で、宇野によれば90年代末からすでに、そのような動きは物語類型からも確認できる。それがつまりバトルロワイヤル・モデルなのである。この新たな物語類型の特徴としては、積極的に行動をする主人公、どのようなルールを創り上げるかをめぐる対立、という二つの点を取り上げることができる。と同時に、これが宇野が現在の若い読者に伝えたいメッセージでもあるだろう。
長いレビューになったが、最後に、もう一つ、私の意見を述べれば、宇野の立論が現在の日本社会の流れをある程度まで現実に沿って捉えているとすれば、日本社会はなんと自家発電的な社会であることか。確かに宇野は世界的なグローバリズムの流れを踏まえた上で、日本のポストモダンの成熟化を論じているが、実際には日本社会ほどポストモダンが純粋な形で現実化した国はないと思う。そして、そのような純粋化の自己展開が進んだ末に、弁証法的な自己否定の時期が到来し、バトルロワイヤル・モデルが社会的に意味のある物語類型として登場する—と言う風にも読めてしまうのだ。『ゼロ年代の想像力』を読んでいると、現代日本においては社会的な変化というものが(外部からの強制という要素はあまり存在感がなく)あたかもの自己展開による局面転換でもたらされているような感じがしてしまう。

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★宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』読む。

東浩紀を乗り越えようとする熱意がじわじわと伝わる。内容的にも十分に、以前の東浩紀が見逃していた新しい物語パターンの台頭と、その社会的意義を説得力を持ってに説明し得ている。よって、東浩紀という変数を抜きにしても、この本の独自的な価値は非常に高いと個人的に考えている。

セカイ系に代表されるような1995年以後、大衆的に支持されてきた物語パターンの意味について積極的に発言してきた評論家が東浩紀で、彼は今現在、日本社会において文化的言説が流通する空間では第一級の行為者といえる。宇野常寛は基本的に東浩紀が提示してきた見通し図(すなわち、現代日本社会の若者層において広く受け入れられている物語形態と、社会自体の変化との連関関係を説明する論理枠)を、そのまま受け入れる。東が主張してきた論に対して、論理整合性の面で批判する箇所はほとんど見られないのである。その代わり、宇野は、東が論じてはいないが現実社会において存在感を増してきた新たな物語類型(バトルロワイヤル・モデルといっている)があることを指摘し、この新傾向を無視していることが、結局は東浩紀の現状認識に誤りをもたらしていると批判する。

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